日々のはけぐちブログ

映画や音楽の話題が中心ですが、基本的に自分が興味を持ったことについて自由に書いていきます。

勝手に音楽語り第一回 Champagne Supernova


Oasis - Champagne Supernova

かなり日が空いてしまいましたが、久しぶりにブログを更新します。

今回は音楽の話。

私がわざわざ紹介しなくても、言わずと知れたイギリスのロックバンドOasis

兄弟の仲がこじれて解散?活動休止?と言うような状態になって幾年かの年月が経ちました。

そんな彼らが1996年くらいに世にはなった言わずと知れた曲がこのChampagne Supernovaなのですが、この曲は個人的に凄くOasisらしいなと思うのです。

曲の冒頭から幾度も出てくるこの歌詞。

 

How many special people change

How many lives are living strange

Where were you when we were getting high?

 

訳すとこんな感じでしょうか。

 

どれだけの特別な人たちが変わって行って

どれだけの人生がおかしくなって

俺たちがハイになっていた時、君はどこにいた?

 

これはまず一つ目の解釈としてOasisが当時見ていた風景として、或いは境遇として解釈できます。

イギリスの労働者階級出身の彼らが、ステージの上で歌を歌い、ギターをかき鳴らし人々を魅了する。

多くの人たちの心をつかみ、人生に何かしら影響を与えていることは彼らも承知のことだったのでしょうが、じゃあなんで君たちも俺たちみたいにならないの?

俺たちはステージの上にいる、じゃあ君はどこにいた?

または、俺たちは音楽を楽しんで葉っぱやってハイになってシャンペンをあおって好き勝手やってる。

君たちはその時何してた?

みたいな。

言ってしまえば成功者が、一般大衆に対して夢は努力すれば必ずかなうなどと説教を垂れてるようにも見えるのですが、実際は少しでも自分たちの音楽で昔の自分たちのような境遇の人たちに変化をもたらしたいと思っている、Oasisからの説教と言うよりはエールとか問題提起みたいなものなのではないかと思っています。

これはChampagne Supernovaだけでなく、他のOasisの楽曲でも多くみられるメッセージだと思います。

そしてもう一つの解釈として、Oasisを語る上でその音楽性の類似点やイギリスの労働者階級出身と言う共通点から、対になって取り上げられることの多いThe Beatles

そのThe Beatlesへの思いみたいなものが歌われているとも言われています。

俺たちはあんた達みたいになりたくて、やっとここまでたどり着いた。

あんた達の歌に影響されて、やっとここまで来たのに、あんた達はもうここにはいなくて・・・。

曲の中盤でリアムは『Why』と疑問を我々聞き手、もしくはThe Beatlesに投げかけているのですね。

それらの思いを考えるとChampagne Supernovaは実にOasisらしく哀愁を感じます。

Oasisの楽曲のリリックの内容には特に深い意味はないと、作詞しているノエルは言っていますがその深い意図のないリリックの内容から私たちは色々なものをもらっています。

希望も不安も快楽も。

個人的にOasisの楽曲で一、二を争うくらい好きなこのChampagne Supernovaと言う楽曲なのですが、今の自分の境遇とリリックの内容を重ね合わせてしまうと、とても胸が締め付けられます。

 

今、この時にOasisがまだ活動を続けていたら、ノエルは社会をどう見つめて、リアムはどう感情を込めるのでしょう。

Oasisに戻ってきてもらいたいですね。

勝手にアニメ語り第一回 言の葉の庭


映画『言の葉の庭』予告編映像

五月も半ばという事で、季節的にはもうすぐ梅雨になります。

しかしながら、昨今の温暖化だか気象の異常のせいで、梅雨も一瞬で終わるような、そんな年がここ何年も続いているような気がします。

さて、梅雨と言えば私は思い出すアニメがあります。

新海誠監督の2013年の作品『言の葉の庭』です。

正直話の内容としては特に語りたくもならない作品なのですが、一点ものすごく印象に残った場面があります。

主人公のタカオは高校生で将来は靴職人を目指しています。

そんなタカオは雨の日になると一限はサボってとある庭園のあずまやで靴のデザインにはげみます。

ある日、あずまやで昼間からビールを飲んだくれるユキノと言う年上の女性に出会います。

雨の日になるとタカオは授業をさぼってあずまやに赴くのですが、その度にユキノに出会うことになり、二人はなんやかんやあって親しくなります。

そしてタカオは今作っている女性用の靴がどうにも上手くいかない事を告げます。

そこでユキノは何も言わずに靴を脱ぎます。

私の印象に残ったのはここです。

手でもなく、顔でもなく、足を丹念に調べデータを採取するタカオ。

紙の上に足をおいて鉛筆でなぞる。

ずらすまいと足に触れる・・・エロい!

アニメーションなのにこんなにエロいのは機動戦士ガンダムランバ・ラルとハモンの関係性、或いはシャアとララァの関係以来ではないでしょうか。

タカオはただ純粋にユキノの為にと靴職人の卵としてお願いをします。

ユキノはそれを承諾します。

恐らく両者とも自分たちが思っている以上のことなんて考えてはいないと思うのですが、とにかくエロい。

多分、私の記憶が確かならば、その時がタカオとユキノが初めて触れ合った場面だったと思います。

なまめかしい。

新海誠あなどるがたし。

タカオとユキノは雨の日に会うたびにその関係を深めているのは明らかなのですが、それでも明確に友達と言う関係性を口にしたわけでもなければ、もちろん恋人のような関係に発展したわけでもない。

上手く言葉にはできませんが、すん止めのエロさというか、裸とかSEXとかそういう直接的な表現を使わずにここまでエロさを表現しただけでも、言の葉の庭、一見の価値はあると思います。

そのあとの流れとかは、簡単に読めてしまうのが惜しいです。

最後に、余談になりますがエンディングの秦基博のRain(大江千里のカバー)はアニメーション関係なく素晴らしい。

 

秦基博 - Rain

今年2016年。

新海誠監督は新たなアニメーション作品を準備しているようです。

期待して待ちたいと思います。

勝手に映画語り第二回 アイ アム ア ヒーロー


「アイアムアヒーロー」予告

三日目にして始めたブログを途絶えさせてしまったが、特に気にせずに自分のペースで更新していこうと思う。

 

さて、勝手に映画語り二回目は2016年5月12日現在、映画館で公開している作品を語ろうかと思う。

アイ アム ア ヒーロー。

言わずと知れた漫画原作の日本制ゾンビ映画で、私も大好きな北海道の伝説的ローカル番組、水曜どうでしょうでおなじみ大泉洋と、最近ますますその色気がました長澤まさみ、そして今をときめく有村架純が出演している。

ではこの映画、どこがそんなに凄いのか。

外国でいくつも賞をもらうくらいの映画なのか。

それをちょいとネタバレ気味に場面を切り取りながら語っていく。

 

大泉洋演じる英雄はしがない漫画家アシスタントで、過去に賞を取って連載を持ったこともあるが半年で打ち切られてしまったと言う過去を持つ。

現在もアシスタントをやりながら出版会社に原稿を持ち込んでいるが、この漫画が映画の小道具として描いたものにしても、あまりに上手くない。

恐らく英雄は漫画家としての才能が無いのである。

案の定、描いた漫画は邪険に扱われ、やはり連載の話はもらえなかった。

その話を聞いた英雄の彼女はシビレをきらし英雄の集めていた漫画、漫画を描く道具を次々に捨てようとする。

挙句に手をかけたのは、英雄が漫画を描く時にイメージを膨らませるためと言う名目で所持していたクレー射撃用の銃。

しかし、それだけは手放すまいと必死に抱える英雄に、彼女は愛想を尽かし家から追い出してしまう。

なぜここで、彼女でも長年続けてきた漫画の道具でもなく銃を英雄は選んだのか。

それは恐らく銃が英雄の信念であり夢でありプライドだったのだろう。

たんたんと漫画を仕事としてこなす一方で、何かチャンスがあれば、いつの日かと言う願望の象徴が、銃だったのだろう。

家を追い出され、彼女はZQNになり、彼女だけではなく街中の人々がZQNに変わっていく中、英雄は偶然、有村架純演じる女子高生の比呂美と行動を共にすることになる。

しかし、この比呂美も英雄に出会う前にZQN化した赤ちゃんに首元を噛まれており、半分ZQN、半分人間とう半端な状態になってしまう。

そもそもこのZQNとはいったい何なのか、ZQNはどうして生まれたのか等の謎は映画の中では全く解決しない

ただ、比呂美が半分ZQNとなることと、映画で描かれるZQNの行動を読み解いていくと、実はZQNとは我々のメタファーだという事が分かってくる。

ショッピングモールで建物の上からZQNの行動を観察するシーンがある。

吊革に捕まって電車で通勤している格好のまま立ちすくむZQN。

店の入り口でショッピングを楽しんでいるかのようなZQN。

何をするわけでもなく、あっちに行ったりこっちに行ったりと、なんだか良く分からない事をしているZQN。

そして、生前は大学で走り高跳びの選手として期待をかけられていたという、ZQN化してもなお高跳びの練習をしている個体など様々なのだが、これらは正に、決められた仕事をし、遊び、練習をしているだけのなんとなく毎日を消化している、スクリーンの前にいる我々そのものなのである。

そして比呂美はそんなつまらない我々、大人に今まさになりかけているのである。

そんなZQNを見ながら長澤まさみ演じる藪は言う。

「彼らは過去に生きている。」

私達は普段地元の仲間で集った時、或いは大学の仲間で集まった時、あの時は楽しかったね、なんて会話をすることがあると思う。

そう、私たちはその時点でZQNになってしまっているのである。

 

映画のクライマックス、大勢のZQNから比呂美を守るために英雄、藪、ニートと夫婦関係が終わっていた中年男が奮闘する。

しかし、つまらない大人にはならなかったものの夢や信念を持っていなかったニートと冷めきった夫婦仲に最後の希望を見ようとした中年男は死んでしまう。

生き残ったのは、英雄、そして患者を助けたくても助けられなかったと言う過去を持つ看護師の藪。

この二人の共通点は報われない今を信念や夢、プライドを失わずに生きてきたという事だろうか。

そして、最後に立ちはだかったZQNも、実は英雄のように信念や夢、プライドを失わずに生前、走り高跳びの選手として、練習を続けていた人物でもある。

両者の違いは、報われなさとか周りからの期待感とかそんなところだろう。

ここまで語れば、この映画がどういう性質をもった映画なのかという事が分かってきたのではないだろうか。

日本映画にしてはアクションや撮影に手間がかかったゾンビ映画というだけでなく、報われない人間、社会の中で陰日向の存在が世の中に反旗を翻す、一石を投じる、そんな爽快感を味わえる、映画の作りとしても大変厚みを持った素晴らしい作品なのである。

だから、日本人以上に目の肥えた海外の映画ファンからも称賛されるのである。

公開間際、或いは公開当初にあれだけ宣伝を打って、ここまで成功した日本映画は、ここ何年かでは無いのではと思う。

 

余談だが、私はこの映画をみながら劇場で一人号泣した。

迫りくるZQNをそれまで報われなかった男がバンバン打ち殺すさま、そして車に乗り込み脱出した三人。

右向きの比呂美のアップは脱出できたはずなのに、表情は硬く、藪に名前をたずねられ、それに答える英雄も自身のことをただの英雄と言うだけ。

そうして私達は、そんなどこか後味の悪い余韻を胸に現実へと戻される。

勝手に映画語り第一回 ギルバート・グレイプ


What's Eating Gilbert Grape - Trailer

ギルバート・グレイプアイオワにある小さな町で生活している。

障害を持ち十年は生きられないと医者から宣告された弟のアーニー。

その弟も、もうすぐ十八歳の誕生日を迎える。

母親は父親の死によるショックで、クジラのように肥え太って、家から一歩も出なくなってしまった。

そんな母の代わりに家の仕事をこなす姉と、少し生意気な妹と5人暮らし(実は兄貴もいるがとっくに町を出て映画には出てこない)。

ギルバートは町の食料品店で仕事をしながら、そんな家族たちを死んだ父親の代わりに支える生活を送っていた。

ある日、町の外から旅の途中のトレーラ団がやってきた。

その中の一台が故障し、しばらく町に留まることになり、ギルバートはベッキーと言う少女にであって・・・と言うストーリー。

こまかい映画の解説は多分インターネット中に沢山ころがっていると思うので、今回は映画の中に出てくる人物達の役割について語っていこうかと思う。

 

まずギルバートについて。

ジョニー・デップ演じるギルバートはこの映画の主人公なのだが、家族の面倒を見ないといけないと言うのを理由に自分を押さえつけて生きている。

否、家族と言うよりは肥え太った母親を支えるためになのだが、その母親は見た目通り、ギルバートの重荷になってしまっている。

言わばギルバートは自制心の象徴だろうか。

次にギルバートと一緒にいつもいるアーニー。

このディカプリオ演じるアーニーが、劇中ではギルバートを押さえつけるもう一つの理由のように描かれているのだが、実はアーニーはギルバートの欲望なのである。

ギルバートが母親を理由に町に留まっている一方、アーニーは目を離すとすぐ高いところに上ってしまう。

これはギルバートができない事、すなわち町を離れるという事を代わりにアーニーがやろうとしているのである。

そして、ギルバートにおんぶされた時には「兄ちゃんは縮んでる!」と笑いながら叫びまわる。

そう、文字通りギルバートは自制心で押さえつけすぎて縮んでしまっているのである。

そんなギルバートの心もベッキーに出会う事で少しづつ変化していくのだが、では、この旅の少女ベッキーはいったいどう言う存在なのかと言えば、恐らく自由の象徴なのだろう。

だからこそアーニーはギルバートよりも先にベッキーに声をかけるし、ベッキーが来てからと言うものアーニーはどんどん手を付けられなくなっていく。

他にも葬儀屋の友達とか、ハンバーガーショップで働く友達、ギルバートの不倫相手だとか物語に厚みを与える登場人物が沢山いるのだが、あまり言及しすぎても野暮だと思うので今回はこの辺にしておこうと思う。

 

 

 

ブログはじめてみました。

 いったいどれくらいの人がこのブログを目にするのか分かりませんが、以前からブログやりたいなと思っていたので、はじめてみました。

 

まだまだ手探り状態で、何をどうしたら良いのか分からないのですが、気ままに更新していきたいと思います。

 

内容としては音楽や映画の話を中心に広く浅く、時には深く綴っていきたいと思っています。

 

少しでも読んだ方に楽しんでいただければ幸いです。

 

という事で、ちょっと硬い一発目の記事になりましたが、気が向いた時にでも読んであげてください。